日本で初めて統合報告書を発行した東京大学に聞く

大学版統合報告書の現状と課題

  • コンテンツ本部 ソリューション3部 兼 大学ブランド・デザインセンター コンサルタント 廣田 亮平

昨今、企業だけでなく、大学でも統合報告書を発行する事例が増えています(図1)。日本でその草分けと言えるのが東京大学で、2018年度から発行を重ねてきました。国立大学は2004年に独立行政法人化され、2015年には文部科学省が「国立大学経営力戦略」を発表、「運営」から「経営」への転換を迫られています。社会における大学の位置づけも変わりつつあるなかで、大学はステークホルダーに対してどのような情報を発信すべきか、東京大学財務部決算課長・IRデータ室副室長の青木志帆氏にお話を伺いました。 聞き手=大学ブランド・デザインセンター コンサルタント 廣田 亮平/文=林 愛子

大学の無形の価値を伝える統合報告書の意義

高等教育の機会均等の確保、世界最高水準の教育研究の実施、重要な学問分野の継承、計画的な人材養成などの役割を担う国立大学は、国から措置される運営費交付金等を活動原資とするため、財務情報や活動状況について説明責任(アカウンタビリティ)の義務を負っています。東京大学でも納税者(国民)と国に向けて適切に情報開示を行ってきました。

しかし、近年は大学に期待される役割が広がっています。2015年の「国立大学経営力戦略」では社会変革のエンジンとして知の創出機能を最大化することが必要だとされ、2019年の「成長戦略実行計画」では、大学は知識集約型社会における価値創造の源泉で、その多様な学知を変革の原動力に活用するという役割が明示されました。

東京大学ではこれまで以上に広いターゲットに大学が提供する価値やパーパス(存在意義)を知ってもらう必要があると考え、2018年度から従来の財務報告書に替えて、日本で500社超の企業が発行する「統合報告書」を、日本の大学としては初めて発行することになりました。東京大学財務部決算課長・IRデータ室副室長の青木志帆氏は「大学にとって統合報告書は企業以上に有効」だと語ります。

「本学はバランスシートで見ると不動産の存在感が大きいのですが、学生や教員に『東京大学の価値は何か』と尋ねて、不動産と答える方はいないでしょう。大学の価値は人材や学知、ネットワークなどの無形資産にあります。また、大学の投資効果は大学の外の社会関係資本に影響を与えるもので、たとえば前総長が掲げたビジョンの一つ『知のプロフェッショナルの育成』は社会や経済に広くインパクトをもたらし、未来にもその影響が及ぶと期待されます。統合報告書は財務情報と非財務情報を有機的に結び付けて示すものなので、大学の持つ無形の価値を顕在化するとともに、それを起点とする価値創造プロセスをわかりやすく表現する上で有効なコミュニティツールだと考えました」

2018年度(1校)東京大学2019年度(11校)東京大学、宇都宮大学、筑波大学、千葉大学、一橋大学、新潟大学、福井大学、三重大学、神戸大学、岡山大学、東京海洋大学2020年度(16校)東京大学、宇都宮大学、筑波大学、千葉大学、一橋大学、新潟大学、福井大学、三重大学、神戸大学、岡山大学、東京海洋大学、信州大学、島根大学、北海道教育大学、滋賀大学、東京外語大学

出典:「先端教育」2021年5月号 国立大学法人の統合報告書の開示と増加を基に作成

図1:国立大学法人の統合報告書の開示の増加

企業版フレームワークを参考に教職員で徹底的に議論

統合報告書の作成初年度は何もかもが手探りでした。当時は海外の一部の大学で発行事例があったものの、国内ではゼロ。国際統合報告評議会(IIRC)の指導原則フレームワークを参考にしながら、大学版の統合報告書は企業版とどう違うのか、東京大学として何を伝えるべきか、議論を重ねながら作成を進めました。

作成実務を担うチームはIRデータ課を中心に結成し、教育・学生支援部や財務部などから関係性の深い部署のメンバーが参画したほか、「東京大学の学問の価値や教育の方向性は事務職員だけでは分からない」(青木氏)ため、文系と理系の教員も加わっています。

「統合報告書はどのリソースをどう組み合わせて価値を生み出し、社会にどのようなインパクトを与えていくのかを表すためのものなので、本学が行っている社会変革の駆動力たる活動をぶれることなく、丁寧に伝えていくことが大切だと思っています。たとえば、大学の中で、直接短期的な収益につながる研究は限られています。2020年度版でご紹介したエジプトの古代文字の研究は産業や社会課題の解決に直結するテーマではないかもしれませんが、世界の知の多様性に貢献する研究であり、このような学問の多様性と厚みこそ東京大学の魅力だと思っています」

その魅力をどう伝えるか、学外の編集者の協力も得ました。企業の統合報告書は投資家が投資判断のための資料として目を通しますが、大学の統合報告書はそうではありません。手に取って、読み進んでもらうためには見せ方やビジュアルの工夫も必要です。そこでリングノート風のデザインを採用し、扉のデザインおよびリード文にもこだわって、目を引く工夫を施しました。構成についても、IIRC(国際統合報告評議会)のフレームワークの中で、価値創造モデルや価値創造ストーリーについて言及されていたので、東京大学の統合報告書でもストーリー性を大切にしています。

ビジョンとの紐づけの過程で生まれる副次的効果とは

統合報告書の作成には副次的効果としてインナーブランディングが期待されることが良く知られています。初年度は不確定要素が多いことから、原稿は青木氏を始め、限られた人員で執筆しましたが、2年目以降は部署の垣根を越えて若手職員を積極的に巻き込んでいます。

「トップの思いをどれだけ込められるかが重要なので、作成に当たっては逐次、総長のお考えをお伺いしています。若手スタッフは日々の業務に忙殺されがちですが、統合報告書作成を通して本学のビジョンや戦略に触れるので理解が深まり、組織のビジョンと自分たちの仕事とを結び付けて考えることができるようになるのです」

実際に作成に携わったスタッフからは「総長取材に同行したことでアンテナが広がりました」「本部事務組織にいると教育の現場が遠く感じるのですが、オンライン授業の取材を通して現場のお話を聞くことができて勉強になりました」などの声が上がっています。

「ただし、現場に寄り添い過ぎてはダメで、あくまで経営者目線で書くことが大切」と青木氏は指摘します。大学のPRはもちろん大切ですが、統合報告書の目的はそこではありません。東京大学はなぜこの事業を重視し、投資をするのかといった俯瞰の視点、すなわちWhyの視点が重要なので、そこから逸脱した原稿は何度でも書き直すそうです。「普段の仕事でも俯瞰の視点は重要ですから、その意味でも良い影響を及ぼしているのでは」と青木氏は言います。

図2:東京大学 統合報告書2020

発行のタイミングに合わせて積極的に活用する場づくりを

過去3カ年分の統合報告書はウェブサイト上でPDFが公開され、誰でも閲覧できますし、リングノートの冊子版も取り寄せることが可能です(図2)。しかし、発行当初は思ったほど反響はありませんでした。

「初年度は財務報告会やメディア懇談会などのほか、産学連携や渉外活動の際にも配布しましたが、期待するほど認知度が高まらなかったので、これは自分たちで広めていかないといけないと考えて、2年目から『日経アニュアルリポートアウォード』に参加させていただいています。日本経済新聞の朝刊に載った反響は大きかったですね。ここではコンサルタントやアナリストの方々には大学に対する投資目線で評価されますから、東京大学がやりたいことをどう伝えればいいのかを考えるヒントになります」

統合報告書は卒業生向けのイベントでも配布されています。そこで手にした一人は書店経営者で、店内に設置する東大コーナーに統合報告書も並べて、Twitterで発信してくれたそうです。また、私立女子高の校長先生から「東大がこれほどさまざまな活動をしていることを知らなかったので、ぜひ統合報告書を使って中高生向けに講演をしてほしい」という依頼もありました(感染症流行のため講演は延期)。

現在は4冊目となる2021年度版の作成が始まっています。この春に就任した藤井輝夫新総長とともに、ステークホルダーに何を伝えるべきかを考えていくわけですが、まだまだ課題が山積していると、青木氏は言います。

「統合報告書は組織トップの使命報告書であるべきだと言われていますが、本学のものはまだそうなっていないとのご指摘を受けています。また、財務と非財務を統合し切れていない、マテリアリティ(重要課題)の訴求が十分でない、情報を結合しきれていないといったご指摘もありました。オリジナルの財務諸表を開発するなど、かなり工夫しているのですが、表現は難しいですね。問題の一つはセグメント別リポーティングができていないことではないかと考えています。ここで言うセグメントとは学部や研究所といった組織図上の分類ではなく、戦略的ビジネスユニットのことです。総長の方針に紐づく課題に対して、何を目指し、そこにどの程度投資して、どこまで到達できているのか、セグメント別リポーティングとして説明していけたらと思っています」

トップのメッセージを明確にしターゲットを定めた報告書に

昨今、統合報告書を発行する大学は増えていますが、内容的にはまだ過渡期なのかもしれません。青木氏は個人の考えと前置きしたうえで「誰の、誰に対する報告なのか、どの大学も迷っているのではないでしょうか」と言います。

「同じ話題でも産業界や市場向けと卒業生向けでは内容が変わってきますし、説明責任を果たすためなのか、PR重視なのか目的によっても変わります。ただ、企業でも同じだと思いますが、IR部門や財務部門など一部の部署が作った報告書は事業の報告に留まる可能性があります。本学では総長が統合報告書の作成を宣言し、実務を進めました。統合報告書はトップを旗振り役に、トップの意思や思いを理解して作ることが重要だと考えています」

コンテンツ本部 ソリューション3部 兼
大学ブランド・デザインセンター コンサルタント
廣田 亮平

大学のブランド戦略・広報活動をワンストップで支援する大学ブランド・デザインセンターのコンサルタント。広報誌やWebサイトの企画立案、コンテンツ制作を通じて組織におけるコミュニケーション課題の解決に取り組む。

※肩書きは記事公開時点のものです。

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