「~非上場企業も対応を強化~ いま注力すべきESG情報開示を考える」②

日本企業が人的資本情報開示の遅れを取り戻すために

  • 古塚副本部長2020

    サステナビリティ本部 本部長 古塚 浩一

ESGの中で、日本企業の取り組みが遅れているとされるのが「S」の領域であり、人的資本に関する情報開示だ。Institution for a Global Society(IGS)社長で一橋大学大学院特任教授も務める福原正大氏は、企業価値向上に向け、正しい経営判断のもとで人的資本をコントロールしているプロセスをしっかり開示することが重要であり、その開示をROI(投資利益率)の視点で設計することの意義にも言及する。

2023年5月10日開催
企業価値向上セミナー
~非上場企業も対応を強化~ いま注力すべきESG情報開示を考える」より
文=斉藤俊明
構成=古塚浩一、金縄洋右

人的資本データ化と把握で企業価値向上へ、日本企業の課題と研究会の役割

世界最大の資産運用会社ブラックロックでの役員経験を持ち、企業の取り組みをデータ化してグローバルで投資対象を選ぶ運用に携わってきた福原氏。非財務資本の重要性が近年増してきた中、米国では1990年代後半から人的資本をデータ化して経営が定量的に意思決定を行い、かつそのプロセスを開示する流れが始まっていたものの、日本では現在も実践する企業がなかなか出てこないと指摘する。

「いま、ESGの3つの要素の中でもSにおける人的資本の注目度がかつてないほど高まっています」と福原氏。参考までに2022年の1年間で、日本経済新聞では「人的資本」という言葉が280回登場し、2023年も5月頭の時点ですでに前年の半数の140回を超えており、ほぼ毎日現れる頻出ワードになっている。背景にあるのは、2023年度の有価証券報告書の記載事項に人的資本や多様性に関する項目が追加されたことだ。

そもそも、人的資本とは何を指すのか。福原氏は前職の経験において、人的資本が正しく理解されていないと感じていたという。

2023年度から有価証券報告書の記載事項に「人的資本」に関する項目が追加されることから頻出ワードとなっている。(資料提供: Institution for a Global Society)

「人的資本は、エンゲージメントであるとかダイバーシティであるとかいろいろ言われます。それらは人的資本の一側面ではありますが、ど真ん中ではありません。『人的資本』を提唱した、ノーベル経済学賞受賞者のゲーリー・ベッカーは、人的資本は『人の能力』であると述べており、更にIIRCの『国際統合報告フレームワーク』にいても人的資本は『人々の能力、経験及びイノベーションへの意欲』と定義されています」

こうした事情を背景に、一橋大学大学院を中心として2022年、「人的資本理論の実証化研究会」が設立された。同研究会は人的資本を理論的に理解したうえで定量的に把握し、そのデータに基づき企業価値向上への道筋を実証していくことが目的で、福原氏と、同じく一橋大学大学院の小野浩教授が共同座長を務めている。

人的資本の理論をしっかり理解すると、企業価値を高めるために人的資本をどうコントロールすべきかが見えてくると福原氏。そのうえで人的資本を定量化し、開示していくことで、経営においては企業価値向上に向けた人的資本投資戦略を構築でき、IRにとっては投資家への戦略的な情報開示につながるとして「投資家は人的資本が企業価値を向上させるか否かを明確に知りたいのでそこを理解すれば、情報開示自体は戦術的なものでしかありません」と話す。

にもかかわらず、冒頭で触れたように日本では人的資本のデータ化が進んでいない。

「そもそも外国人投資家の多くはデータを基に科学的運用を行っているので、人的資本を含めあらゆる取り組みを定量化しておくことが必要です。投資家から見ると、日本は人事の取り組みが企業価値にどうつながっているか判断できない状況になっています。だからこそ、日本企業が実際に持っている力を存分に示していくことも本研究会設立の目的になっています」

国も人的資本可視化指針において、人的資本への投資が企業価値につながるという投資家の視点を意識し、定量的なデータで状況を把握したうえで施策につなげるプロセスの重要性を示している。それ故に「企業のIRとしては、そのプロセスをそのまま外に開示していけばいい」と福原氏。ただ、それを実践可能にするには経営や人事がバックボーンをつくり、施策面で支えていくことも重要になると語った。

そして「施策として展開するうえでは、人的資本が企業価値に与える財務的影響を把握するため、投資対効果をROIで測っていくことも当然必要になります」として、「人的資本=人の能力」を前提とすれば、個々の人間の能力と企業価値の関係性を見ればいいと指摘する。そこで必要になるデータとしては、人材能力データの他、人材能力を企業価値に効率的に繋げる指標として健康・ハピネス・従業員エンゲージメント等に関する各企業の測定データ、そして財務データを挙げた。

国の人的資本可視化方針でも人的資本への投資の最終的なゴールは「企業価値向上」と記されている(資料提供: Institution for a Global Society)

研究会は、こうしたデータに数理モデルを組み合わせることで、人的資本が企業価値に与える財務価値をデータから導き出せるという考え方に立つ。一橋大学大学院とIGSを中心として人的資本理論の理解を進め、企業と連携して価値向上に向けた人的資本戦略の定量化支援を行っている。連携する企業として2022年度は大手9社が参画。2023年度はさらに拡大し、5月末時点で27社という状況だ。より多くの企業が加わることで、より多くのデータを用いた精度の高い実証が可能になると福原氏は期待を示す。

人的資本の情報開示とは、繰り返しになるがあくまでも人的資本をデータでしっかり把握し、それを基に経営が施策を展開して企業価値を向上させるプロセスを明らかにすること。ところが、そのプロセスがしっかり行われていないにもかかわらず統合報告書で“美しいこと”だけを書くESGウォッシングも見られると福原氏。そこで、きちんと取り組んでいる企業とそうでない企業を見分けられるようにすることが今後重要になるとし、研究会でも今年度、幹部社員一人ひとりのESG対応力などによって企業価値向上に差が出るかどうか検証することを目的に設定している。

これまで研究会では、プライム上場企業幹部の能力データを分析し、「イノベーション力」「SDGs力」のスコア上位3分の1と下位3分の1の企業の株式を均等に保有した場合を想定して、利回りのシミュレーションを実施した。

結果としては、イノベーション力が高い企業の利回りが最も高いこと、SDGs力が高い企業はリスクが低いことが示されたという。

最後に福原氏は「こうしたデータが出てくると、投資家もデータにさらに注目するようになるでしょう。その前提として、人の能力のデータ化はやはり必須。日本を代表する企業が人的資本の現状をデータで把握し、企業価値との関係性を明らかにしたうえで投資をしていくプロセスの開示が進むように、研究会としても引き続き活動していきます」と語った。

2023年5月10日開催 企業価値向上セミナー
講演 ③ 「ROI視点で設計する人的資本情報開示」
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連載:「~非上場企業も対応を強化~ いま注力すべきESG情報開示を考える」

福原 正大(ふくはら・まさひろ)氏

Institution for a Global Society(IGS)
代表取締役社長
福原 正大(ふくはら・まさひろ)

慶應義塾大学卒業後、東京銀行(現三菱UFJ銀行)に入行。フランスのビジネススクールINSEAD(欧州経営大学院)でMBA、グランゼコールHEC(パリ)で国際金融の修士号を最優秀賞で取得。筑波大学で博士号取得。2000年世界最大の資産運用会社バークレイズ・グローバル・インベスターズ入社。35歳にして最年少マネージングダイレクター、日本法人取締役に就任。2010年に「人を幸せにする評価で、幸せをつくる人を、つくる」ことをヴィジョンにIGS設立。

※肩書は記事公開時点のものです。

古塚 浩一

サステナビリティ本部 本部長
古塚 浩一

2018年、日経BPコンサルティング SDGsデザインセンター長に就任。企業がSDGsにどのように取り組むべきかを示した行動指針「SDGコンパス」の5つのステップに沿って、サステナビリティ経営の推進を支援。パーパスの策定やマテリアリティ特定、価値創造ストーリーの策定から、統合報告書やサステナビリティサイト、ブランディング動画等の開示情報をつくるパートまで、一気通貫でアドバイザリーを行うことを強みとしている。2022年1月よりQUICK社とESGアドバイザリー・サービスの共同事業を開始。ESG評価を向上させるサービスにも注力している。