「人的資本理論の実証化研究会」2022年度の成果を公表

人的資本が充実している企業は株式市場での企業価値も高い

  • 古塚副本部長2020

    サステナビリティ本部 本部長 古塚 浩一

一橋大学大学院の小野浩教授と、Institution for a Global Society(東京都渋谷区、以下IGS)の代表取締役社長で一橋大学大学院特任教授の福原正大氏が共同座長を務める「人的資本理論の実証化研究会」が、初年度(2022年10月~2023年3月)となる2022年度の研究成果を発表しました。
研究成果では、上場企業32社の人的資本(企業人材の能力)を定量的にデータ化して分析した結果、管理職の能力が企業価値(株式時価総額)の向上にどのようにつながるかといった説明や予測を実現できる可能性を示唆しました。

構成=古塚 浩一
文=小槌 健太郎

「人的資本の投資対効果」の研究を推進

2023年3月期決算以降、上場企業など有価証券報告書を発行する約4000社は、女性管理職比率や男性育児休業取得率、男女の賃金格差といった重要業績評価指標(KPI)を、有価証券報告書の「従業員の状況」に記載する、いわゆる「人的資本の情報開示」の義務化が始まります。

人的資本理論の実証化研究会は、日本企業がこれらの開示にとどまらず、そもそも人的資本が企業価値にどれだけ寄与するものか「人的資本の投資対効果」を明らかにすることで、データに基づく人材施策の投資判断を促し、投資家への戦略的な情報開示を実現するために発足しました。

研究会では「人的資本」の概念を提唱したノーベル賞経済学者のゲーリー・ベッカー教授の理論に基づき、人的資本を「能力」と捉えています。売り上げや利益などの財務データと異なり、人的資本や人材の能力は測定や定量化が難しく、日本では人的資本への投資対効果に関する研究があまり進んでいないのが実情です。

研究会では、IGSの360度評価ツール「GROW360」で社員の多様な能力を測定しています。GROW360は360度評価に人工知能(AI)による評価補正を組み合わせることで評価に関わるバイアスを軽減し、信頼性の高い他者評価を実現。さらに、IATと呼ばれる受検者が潜在的に持っている気質傾向を測定できる手法を用いて、隠れたパーソナリティーも可視化します。OECD(経済協力開発機構)が定義したキー・コンピテンシーのフレームをベースに、東京大学とグローバルで活躍する人材の普遍的な行動特性を定義しました。統一された基準で個々の人材の能力を測るため、業界ごとなどで能力の比較が可能です。

GROW360は2017年10月のリリース後、累計約200社(2023年3月現在)が有償サービスを利用し、76万人(2022年12月末現在)以上の学生・社会人が受験しています。2017年8月にはハーバード・ビジネス・スクールのケースにも採用されました。

研究会は、ベッカー教授に師事した一橋大学大学院の小野浩教授の人的資本理論に基づき、GROW360の人材能力データと財務データ等を含めた企業の実データを分析して研究を進めています。

IGSの福原社長は「人的資本が企業価値に与える影響は、会計におけるP/LやB/Sと、株式市場における企業価値を表す時価総額への影響の両面がある」と話します。人的資本開示の義務化の対象は上場企業であることから、2022年度は人的資本が株式時価総額にどのような影響を与えるかという視点で研究を進めました。

すなわち、サステナブル経営を支える人的資本とは何か、ESG投資にインパクトを与える人的資本の情報は何かを研究することで、企業価値に影響を与える人的資本ファクターを明らかにすることを目指したのです。

人的資本と企業価値との相関性

2022年度の研究では、人的資本である「従業員一人ひとりの能力」をデータ化し、市場における企業価値である株式時価総額との関係を分析しました。上場企業32社(14業界、約1万5500人)について2018年~2022年の過去5年を対象としました。

研究会には、伊藤忠テクノソリューションズ、ニコン、日経BPコンサルティング、日本郵便、三井住友トラスト・ホールディングス、三菱UFJ銀行など9社が参加しました。

分析を進めるにあたって、米ハーバード・ビジネス・スクールの教授も務めた経営学者のクレイトン・クリステンセン氏らの著書『イノベーションのDNA 破壊的イノベータの5つのスキル』(日本語版は翔泳社刊)を基に、イノベーションを起こすために必要な5つの能力(外交性、共感・傾聴力、創造性、個人的実行力、課題設定力)を「イノベーション力」と定義しました。

イノベーション力は、企業の長期的な成長と生産性に直結し、企業が変化に対応して進化し続けるためのベースとなる能力です。

近年、欧州では「グローバルシティズンシップ」が注目されており、地球規模でサステナブルな課題に関心を持てるかどうかが重要になってきています。自分が住む地域や国に限らず、世界の一員として何ができるか考えられるSDGsへの感度は「SDGs力」と設定しました。

企業のサステナブル経営に必要な「イノベーション力」「SDGs力」を、「人的資本ESG指標」(仮称)としたのです。

研究会では、サステナブル経営に必要なイノベーション力とSDGs力を「人的資本ESG指標」(仮称)に設定した
(出所:人的資本理論の実証化研究会 2022年度研究成果)

その上で、上場企業の企業価値推移と各社の管理職の人的資本(能力)の関係を確認。イノベーション力、SDGs力のスコア上位3分の1の企業と下位3分の1の企業の株式を均等に保有した場合を想定し、株式利回りのシミュレーションを行いました。

研究会は、人的資本による企業価値への影響を算出した。イノベーション力とSDGs力のスコア上位3分の1の企業と下位3分の1の企業を均等に保有したポートフォリオを想定し、株式利回りについてシミュレーションを実施した
(出所:人的資本理論の実証化研究会 2022年度研究成果)

管理職のイノベーション力が高い企業と、TOPIX(東証株価指数)やイノベーション力が低い企業と比較したところ、イノベーション力が高い企業は株式利回りが最も高く、リスクに対するリターンの度合い(シャープレシオ)は、イノベーション力が高い企業ほどローリスク・ハイリターンになります。ポートフォリオを構築する指標として、イノベーションスコアが有効であることがわかったのです。

管理職のイノベーション力が高い企業は、株式利回りも他のポートフォリオに比べて高い
(出所:人的資本理論の実証化研究会 2022年度研究成果)

今回分析対象とした2018年~2022年はAIなどの技術が急速に進化し、イノベーションへの対応が企業価値を大きく左右した時期でもあります。イノベーション力が発揮できない企業は、資金調達に伴うコスト(資本コスト)が上昇し、調達した資金に対するリターンが減少しているといえます。イノベーションの源泉ともいえる「デジタル・トランスフォーメーション(DX)」に取り組めない企業は事業リスクが高まったと見ることができるでしょう。

SDGs力も企業価値に相関

管理職のSDGs力が高い企業は、TOPIXやSDGs力が低い企業と比較すると、株式保有のリスク(価格変動の大きさ)が低いこともわかりました。

管理職のSDGs力が高い企業は、TOPIXとの比較で株式保有のリスク(価格変動の大きさ)が2.0ポイント、SDGs力が低い企業群との比較では4.7ポイント低かったのです。シャープレシオはTOPIXには及ばないものの、SDGs力が低い企業よりも高く、SDGs力もまた有利なポートフォリオを構築する指標になりえます。

管理職のSDGs力が高い企業は、株式利回りはTOPIXを若干下回ったものの、SDGs力が低い企業のポートフォリオに比べて高い傾向にある
(出所:人的資本理論の実証化研究会 2022年度研究成果)

分析対象とした2018年~2022年は、世界的にESGと連動した資金調達などが活性化しました。SDGs対応力の高い企業は資金調達に伴うコストが減少し、リスクも低下しています。例えば、環境要因を抱える企業に対して金融機関が投融資を控えたり、サステナブルな企業には金利コストを下げて貸し出したりするケースもありました。「ESG対応力が低い企業はリスクが高くなる」という研究報告もあります。

つまり企業のイノベーション力とSDGs力を定量的に把握することができれば、投資家は適切な投資判断をできる可能性があるということです。企業にとっては、人的資本(能力)を定量的に測定して戦略的に開示することで、投資を呼び込む効果も期待できます。

福原氏は「今後は対象とする企業数を増やすとともに、人材能力をさらに詳細にし、欧州で新たに注目されている社員のESG対応力も定量化し検証する必要がある」と話します。

2023年度は人的資本の指標となる能力を検証

研究会では、2023年は人的資本(能力)の財務価値を表す上で有効な指標は何かについて、データ数を増やして指標群を検証していく予定です。こうした研究成果を基に、企業価値に影響を及ぼしうる人的資本・測定指標を「人的資本ESG指標」(仮称)として提示し、サステナブル経営に影響を及ぼす指標として、人材のESG対応力を測定したり開示などに活用してもらったりすることを想定しています。

2023年度は人的資本(能力)の財務価値を表す上で有効な指標は何かについて、データ数を増やして指標群を検証していく予定
(出所:人的資本理論の実証化研究会 2022年度研究成果)

企業にとっては、指標を計測してマネジメントに活用し、戦略的に開示することで、株式市場や投資を呼び込む上で優位なポジションを得ることができるでしょう。サステナブル経営を支援する金融機関が活用することも期待できます。

2023年度は、金融市場の定量分析を専門とする有識者として、慶應義塾大学経済学部の中妻照雄教授(計量経済学、ベイズ統計学)が研究会に参加します。中妻教授は、1998年に米国ラトガーズ大学でPh.D.(経済学)を取得後、2000年3月まで一橋大学経済研究所に所属し、2000年4月に慶應義塾大学経済学部に着任しました。ベイズ統計学、モンテカルロ法、数値最適化などを駆使したファイナンスにおける計量分析、リスク管理、意思決定手法などを研究し、経済学部などで計量経済学、数理統計学、金融市場の定量分析などの教壇に上っています。

また、2022年度は9社だった参加企業は、2023年度は約20社に増える予定です。

研究会の座長を務める一橋大学大学院の小野教授は「ベッカーは、物的資本への投資よりも、人的資本への投資の方が収益率が高いことを示した。人的資本のストックを常に増やし、更新すると同時に、陳腐化によるストックの劣化を防ぐためにも、人的資本への継続的な投資は欠かせない。本研究会では、ベッカー理論を体系的に学び、人的資本の可視化、ROI計算などを通して人的資本の投資がいかにして企業価値を高めるかを定量的に見極める」と研究会の目指す方向を語ります。

共同座長を務めるIGSの福原社長は「これまでのESGの分析では、役員の男女比率など間接的な情報や、口コミサイトの比較的、信頼性の低い情報から、S(Social)の企業価値への影響が測られたものがあるだけであったが、本研究の成果は従業員の能力という人的資本の質によって、企業価値を説明できる可能性を持つ画期的な示唆であると捉えている。サステナブル経営にとって最もインパクトのある人的資本(一人ひとりの社員の能力)データを、企業が戦略的に開示できれば、より社会善に基づいた選択的な投資行動を引き寄せ、企業価値も高まるだろう」とコメントしています。

私たち日経BPコンサルティングはIGSと連携して、社員の能力評価や、人的資本版統合報告書や人的資本経営視点の社内報の制作を支援させていただいています。人的資本情報開示ご担当のみなさまからのご相談をお待ちしております。お気軽にお問い合せください。

古塚 浩一

サステナビリティ本部 本部長
古塚 浩一

2018年、日経BPコンサルティング SDGsデザインセンター長に就任。企業がSDGsにどのように取り組むべきかを示した行動指針「SDGコンパス」の5つのステップに沿って、サステナビリティ経営の推進を支援。パーパスの策定やマテリアリティ特定、価値創造ストーリーの策定から、統合報告書やサステナビリティサイト、ブランディング動画等の開示情報をつくるパートまで、一気通貫でアドバイザリーを行うことを強みとしている。2022年1月よりQUICK社とESGアドバイザリー・サービスの共同事業を開始。ESG評価を向上させるサービスにも注力している。

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