MSCIアジア・太平洋地域責任者に聞く

なぜ人的資本がESG課題の重要項目となったのか

  • 古塚副本部長2020

    SDGsコンサルティング部 部長 古塚 浩一

企業が将来生み出す利益、稼ぐ力を評価して投資判断をする上で、環境・社会・ガバナンスというESG視点を持つことは既に不可欠となった。
米ニューヨークに本拠を置き、株価指数の算出や、ポートフォリオ分析など幅広いサービスの提供のほか、企業のESG評価を行うMSCIアジア・太平洋地域責任者の長澤和哉氏と、HR techやED techを手がけ、日本における人的資本分析のリーディングカンパニーであるInstitution for a Global Society(IGS)の代表取締役社長の福原正大氏が、企業の気候変動などESG課題への取り組みや人的資本の重要性、非財務情報の開示の動向などについて語り合った。


【人的資本 特別対談】MSCIアジア・太平洋地域責任者
長澤和哉氏
Institution for a Global Society(IGS)代表取締役社長
福原正大氏

構成=古塚 浩一/文=小槌 健太郎

福原 MSCIではESGの観点からどのように企業を格付けしインデックスをつくっているのか、その目的や特徴について教えてください。

長澤 MSCIは公的年金基金や資産運用会社、生命保険会社、ヘッジファンドなど機関投資家に向けて、投資の意思決定の判断基準となるデータやテクノロジーを提供しています。証券会社や銀行が販売する投資信託などを通じて、最終的には個人のお客様もMSCIが関わった商品を購入していますが、直接の顧客はポートフォリオ構築を行う金融機関ということになります。

こうした金融機関に対して、簡便で費用対効果や有効性が高いESGの指数(インデックス)や気候変動対応の指数、女性活躍など人的資本関連の指数を提供しています。

資産運用会社は、MSCIが提供する様々な種類の指数を用いて、投資家の個別ニーズを反映した運用ポートフォリオを構築します。例えばMSCIが日本のESG関連の優良銘柄を集めて構築した指数に沿って、インデックス投資ができる点で非常に有用に使ってもらっています。

さらに、独自にアクティブなポートフォリオを構築したいという投資運用会社などに対しては、企業のESGレーティング情報やポートフォリオ構築のプラットフォームを提供しています。

気候変動はESGの中でも独立して議論すべきイシュー

福原 地球温暖化による気候変動対応など環境(E)への関心が高まり、足元ではESGの社会(S)やガバナンス(G)の重要性も高まっているように見えます。

長澤 和哉氏

MSCIアジア・太平洋地域責任者
長澤 和哉氏

長澤 機関投資家と話をするとき、ESGに関するテーマと気候変動を分けて話すようにしています。10年前であれば気候変動はESGを構成する一つの話題でしたが、今では独立したテーマとしても議論すべき重要なイシューとなっています。それだけ企業にとって気候変動は喫緊の課題であり事業に対するインパクトが大きいということです。

ESGが投資判断の重要な指標になってきたことと併せて、機関投資家にとって企業を評価する基準の信頼性と、評価基準の共通化が重要になっています。実は2021年だけでも34の規制当局や基準設定機関が様々なESG基準を策定したりコンサルテーションなどを行っています。それぞれ共通点や異なる点があり、どう収束していくのかは重要な論点となっています。

ESGの中でも気候変動は、2021年に国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP 26)が開催されたこともあり方向性が見えてきました。各企業がCO2の排出量をスコープ1(燃料の燃焼などによる直接排出)、スコープ2(電気や蒸気の使用による間接排出)を管理して削減努力を進めていますが、次に焦点となるのはサプライチェーンの中でのCO2排出量であるスコープ3を削減していくことです。

企業が製品を製造するために調達した原料製造元のCO2排出量や、商品やサービスを販売した先でのCO2排出量が問われるようになっているのです。CO2排出量ゼロ(ネットゼロ)に向けたサプライチェーンにおける気候変動リスクを管理することは大きな課題です。

もう一つが非公開企業のCO2排出量の計測と管理をどうするかという課題があります。MSCIでは2021年からグローバルで約9000社の企業の公開情報を収集し、CO2排出量の削減目標に対する進捗状況や削減予定の推移などを計測していますが、対象となるのは世界の公開企業です。未公開企業のCO2排出量削減をどう計測して指標化するかは課題です。

また、投資先からの撤退(ダイベストメント)をどうするのかという問題もあります。グローバルの9000社を見ていくと、10%の企業が気候変動による気温上昇1.5度シナリオでも持続的に経営でき、40%の企業は2.0度シナリオにも適応できています。逆に見ると60%の企業は気候変動に対応できていないということになります。過半数を占める60%の企業から投資資金を回収しても気候変動対策は進みません。これらの企業がどのように気候変動対策に取り組むかを働きかけていく必要があります。

COP26でも、気候変動対策の資金をどのように調達するか、投資資金をどう再配分していくかが大きな話題となり、世界の金融市場の大きなテーマとなっています。

福原 気候変動に関してはCOP 26がニュースでも大きく取り上げられましたが、一方で生物多様性に関連してCOP 15はそれほど話題にはならなかったように感じます。地球環境に大きな影響が出つつある気候変動と同じように、人類にとって食糧問題などより直接的に関わる生物多様性も、今後同じように指標化や企業の評価が進むのでしょうか。

長澤 生物多様性は気候変動と同様にESGの大きなテーマですので、今後企業にとってより大きなリスクになってきたときには、ESG指数とは別の指数を設定する投資家ニーズが出てくるかもしれません。まだ指数化しているわけではありませんが、グローバルの食糧問題に関連して、食糧に関する有望な技術などを持った企業を集めた指数をつくりたいという声は出てきています。

企業が成長を続けるための人的資本の重要性

福原 グローバルなESG課題の中でも人的資本を近年、重要なイシューとして多くの機関投資家が重要視しています。機関投資家に投資の判断材料を提供するMSCIでは、そもそも人的資本をどのように定義し、企業価値を評価する上で人的資本の重要度をどのように考えていますか。

長澤 ESGに類似する考え方自体は1990年代初頭には存在し、それが30年近くにわたって進化してきたという歴史的な背景があります。そのESGの骨格をなす論点の一つが人的資本です。人が集まって社会を構成し、企業が存在することを考えると、人的資本が社会の重要な基盤となっていることがわかります。

企業の事業戦略の下、従業員が事業を遂行する動機に従って継続的に働き続けられるかという働き方と、能力のある人材を企業組織に迎えることができるかという採用の2つの側面があります。その企業に入社したときから、どれだけ従業員のキャリアデベロップメントを支援して、継続的に働ける環境を提供しているのかという点も重要です。

こうした点を定量化して評価するようにしています。人的資本の評価項目の一つに人材の多様性があります。日本では従業員の男女比率、海外企業では男女比に加えて人種なども指標になります。現在の社員の構成比や、採用時や採用に応募した母集団の中での比率など、様々な視点から定量化していくことが重要です。

MSCIは企業のESGに関するリサーチでリーディングカンパニーでありたいと考えています。外部の方からもそうした評価をしていただくことが多くあります。この評価を継続して経営していけるように、MSCI自身がESGの観点で優良な企業でなければいけません。

外部の企業をESG指標で評価するのはもちろんですが、私たち自身も企業活動をしていく上でESG指標を活用しているのです。

なぜ今、人的資本なのか

福原 米国証券取引委員会(SEC)は、米国の上場企業に対して「人的資本の情報開示」を義務づける開示ルールの改訂を行い、2020年11月9日以降に提出される定期報告書と登録届出書に対して適用しています。日本政府も成長と分配の好循環による新しい資本主義の実現を目指し、人への投資を進めることで新たな付加価値を創出する力を強化するとともに、デジタルなど成長分野への労働移動の円滑化や、人材育成を強力に推進するとしています。改めて、企業の持続的な成長を考えるときに、人的資本の重要性がなぜこれほどまでに高まっているのか、その背景を教えてください。

長澤 グローバルの変化が激しいことが要因の一つだと思います。例えば5年後も現在と市場環境や経済情勢が変わらないとすれば、現在遂行していることを継続していけば、ある程度の成長を維持することができます。けれども世界が大きく変わりつつあり、企業の外部環境の変化が激しく、事業戦略の変化に合わせて従業員のスキルや能力を向上させたり、新しい人材を獲得したりするなど労務マネジメントが問われており、人的資本の重要性が高まっているのです。

また急激な変化に対応し、イノベーションを起こせる優秀な人材に会社に居続けてもらう、あるいは外部から採用するためには、年収はもちろんですが、優秀な人材が共感できる、この会社で自らの能力を最大限発揮したいと思える、パーパスの存在が欠かせません。現在、これほどまでにパーパスが重要視されるのは、人的資本の重要性が高まっていることに連動しているのです。

福原 おっしゃる通り、いくら年収が高くても、その人のライフのパーパスと企業のパーパスが重ならなければ、長く働くことはできないですからね。

MSCIのアジア・太平洋統括の立場にいる長澤さんから見て、各国の企業のESG課題への理解や取り組み、非財務情報開示の動向をどう見ていますか。

日本では、岸田文雄首相が「成長と分配の好循環」と「コロナ後の新しい社会の開拓」の実現に向けて開催している有識者会議「新しい資本主義実現会議」が、2021年11月8日に「緊急提言(案)~未来を切り拓く『新しい資本主義』とその起動に向けて~」を公表しました。

その中で人的資本について「(4)労働移動の円滑化と人的資本への投資の強化」という項目で、企業は長期的な視点に立ち、株主だけでなく従業員や取引先も恩恵を受けられるように経営を行うべきであることや、日本企業の人的投資は欧米に比べて低水準であり、金融審議会において、有価証券報告書での人的資本を含む非財務情報の開示を充実させるための検討を行うことなどを盛り込み、企業の人的資本投資を促進するため、人材の育成や採用などに関して国が支援や助成を進めていく方針を明らかにしています。

福原 正大氏
Institution for a Global Society(IGS)代表取締役社長
福原 正大氏

日本は人的資本への投資が遅れているのか

長澤 必ずしも海外の企業に比べて、日本企業が人的資本への投資について遅れているとは言い切れないと思います。グローバル市場で活躍している日本企業が数多くある中で、海外の企業に比べて人材活用が遅れていたら、日本企業のこれまでの成功はなかったでしょう。

そうした点を踏まえて、日本の人的資本に関する課題を挙げると、まず労働人口の減少など人口動態が重要な要因になります。国の経済成長や企業活動を見る上で人口動態は一番推計しやすい指標で、30年や40年の期間で見ても正確に予測ができます。例えば米国では人口がまだ増えつつあり、日本は減少傾向にあることは、国の成長性を見る上で重要な要素となります。

日本の労働者の特性として、職人のような仕事の仕方をしている技能職が多い点が挙げられます。高度なスキルを持つ技能職が多いことで、日本の製造業はグローバル市場でも強さを発揮できています。簡単には別の人材で置き換えることが難しい技能職がこれから退職する年齢を迎えることは、日本の労働市場のもう一つの課題です。

さらに日本は、労働市場における非正規社員の比率が多い点が挙げられます。日本は労働人口の約40%が非正規社員で、他の先進国より高い傾向にあります。また、崩壊しつつあるとはいえ終身雇用制の考え方が根強くあって労働者の流動性が低いことに加えて、多様性が低い点も日本企業のリスクとなっています。

こうした点から、今後の日本の成長戦略をどのように描くべきかが見えてきます。企業にとって人材を数多く抱えていればよいというわけではありません。企業が行おうとしている経営戦略を遂行するために、必要な人的資本を活用していくという考え方が重要です。

日本の労働人口が減る中、現在は技能職の比率が高いのに、労働者全体の約40%は非正規社員です。非正規社員のスキルを技能職並みに上げたり、人的マネジメントを行えるリーダーシップ能力を高めたりすることができるのかということを考えると、答えは自明です。企業が事業戦略を遂行する上で、必要な人材を労働市場から調達することが難しくなるということが日本の一番の課題なのです。

福原 ご指摘の通り、日本には製造業の技能職が多くいたことが強みとなって、「Society 3.0」と呼ばれる工業社会にあって、グローバル市場でも大きく成長することができました。これまでドイツが提唱した「インダストリー4.0」のように、製造業におけるオートメーション化やデータ化・コンピューター化が進み、第4次産業革命ともいうべき変化を先導する取り組みが官民協力の下で進んできました。

一方、政府の総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)が策定した第5期科学技術基本計画では、「知識や価値の創出プロセスが大きく変貌し、経済や社会の在り方、産業構造が急速に変化する大変革時代が到来している」と指摘し、情報通信技術(ICT)の進化に伴うネットワーク化やサイバー空間利用の飛躍的な発展がこうした潮流のけん引役になるとしています。

いま世界は、情報社会(Society 4.0)から、ICTを最大限に活用してサイバー空間と現実世界のフィジカル空間とが融合した「超スマート社会」である「Society 5.0」を迎えようとしているといわれています。情報社会や超スマート社会においては、この社会を前提としたヴィジョンを描き、ヴィジョンに向かってこれまでにない新しい価値をつくり上げていくことが必要です。労働市場において、日本にはこうしたヴィジョンを描き、新しい価値をつくっていくために必要なコンピテンシーを持っている人材が相対的に少ないことが私たちのデータ分析からもわかってきています。そもそも、日本企業の多くはこうした能力価値自体の定量化さえできていません。また、AI(人工知能)やIOT(モノのインターネット)などを推進するデータサイエンス人材も不足しています。MSCIでは、こうした人材の問題について、どのように見ているのでしょうか。

長澤 従前より必要とされてきた特定分野の技能職や技能労働者が今後必要とされる新しい技術を習得して変化できるのか、あるいは新しい人材が企業にとって重要となる能力に対応できているのかという問題でしょう。ESGの視点で見ると、人的資本のリスクがさらに重要となり、このリスクに影響を与えるエンゲージメントなどの原因を、リスクに照らし合わせながら特定することが不可欠となります。

一般的に、従業員と業務の質的なミスフィットが拡大すると、様々な観点からESGのうちS(社会)のリスクが高まります。個別企業がデータサイエンス分野の従業員をどれだけ必要としていて、そのうちどれだけ採用できているかという量的な面を特定するのは難しいものの、MSCIでは人材と業務のミスフィットが他のESGの分野でリスクとして顕在化する様子は測定可能ではないかと考えています。

MSCIはESG基準の標準を目指す

福原 企業経営や事業戦略と人材のミスマッチの解消が重要だということですが、MSCIではどこまで定量化して評価するのですか。

長澤 個別の企業ごとに定量評価をするわけではなく、業種ごとにどのような課題があるかを特定して重みづけして、同じ業種の企業にその課題を当てはめ、同じ業種の企業間で比較できるようにしています。ある業種の中で、どの企業がリスクに適応できていて、どの企業がリスクに脆弱なのかを評価するという手法です。

業種分類として利用しているのがMSCIとS&Pで1999年に共同開発したGICS(Global Industry Classification Standard)です。GICSは11のセクター分類(大分類)が骨格となっていて、この11セクターをさらに細かく分類した158のサブインダストリー分類(中分類)があります。MSCIのESG格付けでは、158のサブインダストリーのそれぞれに対して重要課題を特定し、その後いくつかのサブインダストリーは統合して、最終的に66の業種における相対的なESG評価を実施しています。

業種によってそれぞれ課題に重みづけをしています。例えば労働集約型の自動車産業や外食産業では労務管理がきちんとできているかが重要ですし、作業に危険が伴うエネルギーや建築などは健康や安全性などを重視します。

IT業種については、GICSセクターの一つにInformation Technologyというセクターがあり、このITセクターの中にESG格付けで用いている4つの業種があります。ITセクターに含まれるいずれの業種でも高スキル人材の活用に焦点を置いた人的資源の開発という課題が比較的高い重要度になっています。

人的資本は横並びで比較できるデータが少ない

福原 MSCIでは評価のレーティングを常にアップデートしていると思いますが、無形資本も含め企業価値を評価する上でどのようなデータが重要になっているのですか。

長澤 ESG全体を見ると、取得できるデータが増えているのは環境関連です。環境関連の課題は、既に企業にとって大きなリスクになってきているのでデータ開示が進んでいます。

例えば気候変動に関しては2021年から実施していますが、グローバルで約9000社の企業の公開情報から、CO2排出量の削減目標に対しても進捗状況や削減予定の推移などを見ています。

企業の気候変動に対する取り組みを分析する場合、例えば企業が排出する100万米ドル当たりのCO2排出量(トンCO2)といったカーボンインテンシティのような現状分析と、将来のCO2削減目標に向けてどのように削減していくかという将来予測の両面があります。

現状分析はデータがあれば評価できますが、将来予測はデータに加えて、どのような削減モデルを基に実施するのかを予測しなければいけません。そのためには、複数の対象に共通して見いだせる事象を抽出するモデリングが重要になってきます。

一方、人的資本については、環境に比べて企業を横並びで比較できるデータが少ないのが現状です。ただ、後退しているというわけではなく、非財務指標の開示が進む中で情報開示は進んでいます。まだまだ定性的な情報が多いのが実情ですが、従業員の研修制度やキャリアデベロップメントのプログラムがあるかなどの情報は取得しやすくなっています。環境関連と同じように人的資本のデータ開示が広がれば、同様の分析や評価はできるようになるでしょう。

こうしたデータを取得するためには、テクノロジーの手助けが必要です。企業がウェブサイトなどで公開しているデータを自動で取得したり、個別企業の状況を合理的なモデルで分析したりして将来予測をするにはテクノロジーが重要です。その意味では、データとモデル、テクノロジーを組み合わせた分析や評価をしているといえます。

例えば、世界最大級の資産運用会社であるブラックロック・グループが運用するETF(上場投資信託)ブランド「iシェアーズ(iShares)ETF」では、多数の組入銘柄をまとめたポートフォリオ全体で、地球温暖化による気候変動で何度の上昇まで適応できるかといった情報を開示し始めています。投資家の視点から見ると、ポートフォリオ全体としてどの程度の気温上昇シナリオに適応しているといったことがわかり、その上で投資判断ができるようになります。これはMSCIがブラックロックに対してデータとモデル、テクノロジーを提供して実現しているものです。

今後は複数の企業をまとめたポートフォリオ全体だけでなく、個社レベルや業種ごと、業態、地域ごとの分析がますます活用されるようになっていくと考えています。ただ、これらの分析はあくまで予測であって、当然誤差があります。個々の企業が2.1度とか1.8度の気温上昇に耐えられるかという100%の精度を求めるのではなく、あくまで気候変動対応の方向性を判断する基準として利用するものです。

人的資本のROIは算出できるのか

福原 企業と話をしていると、環境や人的資本の投資額に対してどれだけ利益を生み出しているか投資利益率(ROI)は正しいのかという議論が出ます。将来予測ではROIを正確に算出することはできませんが、簡便的なROIを計算する動きが広がっています。人材への投資を通じて、いかに人的資本を増やしていくのかという経営の意志と意思決定を支えるためのROIなどの定量化が重要なのだと思います。

長澤 人的資本が難しいのは、人材が一物一価ではない点です。つまり今MSCIで働いている私が、マーケティング会社の仕事に就いても、能力や使えるスキルも全く異なりますし、それに応じてもらえる給与も大きく異なるでしょう。ESGの中でも環境(E)やガバナンス(G)と比べて現時点の人材データは不十分なのです。

MSCIのESGレーティングでは環境(E)、社会(S)、ガバナンス(G)の3分野を、さらに細かい指標に分けて企業を評価します。これらの評価指標が正しいのか、あるいは機関投資家や投資ファンドなど顧客のニーズに合っているのかを年次で確認するコンサルテーションというミーティングを行います。その中で新しい評価基準を追加したり、古くなった指標を他の指標と統合したりするなどの作業を行っています。

直近ではガバナンス(G)の観点から、企業倫理などの指標を加えて、定量的に計測するようにしました。企業倫理に関する研修や内部告発制度の有無などから評価できるようにしています。

福原 GAFAM(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル、マイクロソフト)といったIT企業5社を合計した時価総額が、日本の上場企業全てを合計した時価総額を上回ったことが話題になりました。アップルのように製造業であったり、アマゾンのように物流施設を抱えたりする企業もありますが、ICTを武器に世界市場で大きな売上や利益を得て、高給与で優秀な人材を囲い込んでいます。

一方で日本は労働市場の流動性の低さから技能職の移動も進まず、世界の潮流から取り残されているように見えます。

長澤 最近、海外で「グレート・レジグネーション」(大退職時代)と、「グレート・マイグレーション」(大移動時代)いうことが話題になっています。労働人口の流動化と併せて、新型コロナウイルスの感染症対策によるリモートワークが世界中で進んだことで、従来雇用主の方が強い立場にあったパワーバランスが、従業員など労働者に移りつつあります。

新しい時代に求められる能力を持った人材は、どの地域のどの企業でも簡単に移れるようになってきました。GAFAMが高給を払って優秀な人材を引きつけていることが話題になりますが、従業員全員に高給を払い続けているわけではなく、従業員の選別が行われているのです。高給を払う従業員に対してはそれだけの利益貢献が求められ、企業内で昇給する人と籍を失う人の差がはっきりしています。

マクロ経済の視点で見ると、欧米企業では市場原理が働いて人材の流動化が起き、人的資本による最大限の利益を得ることができるように適材適所が進んでいます。

ただ、高給だけで人材を引きつけている企業は必ずしも成功を続けることができるわけではありません。優秀な人材を高給で引っ張ってきたものの、1回の給与交渉の失敗で、その人材が去ってしまうということはよくあります。

一方で、先ほどもお話しした通り、企業の理念に共感して入社した人材は、貢献に応じた給与を得るのは当然としても、高給を払い続けなくても継続して働き続ける傾向にあります。

仕事を続けていくには、企業のパーパスと個人のパーパスが合致していることが重要なのだと思います。

リスクを取らないことがリスクになる

福原 ESGなど非財務情報を評価するにあたってMSCIが重視している点と、他社に対する強みは何でしょうか。そして、最後にESGで競争力を高めようとしている企業に向けてメッセージをお願いします。

長澤 投資家を代弁する形で、投資の意思決定に何が重要かという視点で個別企業を評価するようにしています。MSCIは、指数(インデックス)や評価(レーティング)でも標準のベンチマークになるようこだわっています。重要な論点や共通項は何かを重視し、評価項目をいたずらに増やすのではなく、できるだけ絞って標準になるように努めています。顧客からは、インデックスやレーティングの質が高いと評価してもらうことが多くあります、顧客のニーズにきちんと寄り添っていなければ、そのように評価してもらえないと思いますので、とても誇りに感じています。

MSCIはESGだけを評価している企業ではなく、常に機関投資家に向けて意思決定のためのツールを提供してきました。顧客が求める要望に従って、提供するプロダクトやサービスも進化しています。機関投資家の要望に総合的に応えてきたことが強みといえるでしょう。

ESGは既に経営の根幹になっています。ESGのレーティングを上げることは目的ではなく結果であって、それを超えて事業を進めることができるかが問われています。

変化の激しい時代に避けるべきは、リスクを取らないリスクです。人的資本の適材適所や、新規や中途採用、継続雇用率を上げていくことは組織論そのものです。リスクを可視化して、将来に向けてESG経営に取り組んでいくことが、結果的にESGレーティングを上げていくことにつながっていくのだと思います。

福原 組織論とのお話もありましたが、測れないものはマネジメントできない、との言葉があります。人的資本の情報開示という潮流をきっかけに、人的資本のリスクや可能性をデータ化、可視化することは、企業にとって正しくリスクを理解し、リスクを取るための第一歩になりますね。示唆にあふれるお話を、ありがとうございました。

長澤 和哉(ながさわ・かずや)氏

MSCIアジア・太平洋地域責任者
長澤 和哉(ながさわ・かずや)

ニューヨーク証券取引所上場のMSCI社エグゼクティブコミッティーメンバー。香港オフィスからアジア太平洋地域10拠点(日本法人含む)を統括。MSCI入社以前は、明治生命保険(現:明治安田生命保険)およびゴールドマン・サックス・アセット・マネジメントに勤務。日本ファイナンス学会理事。上智大学特任教授。慶應義塾大学理工学部卒、同理工学研究科修士課程修了。

※肩書は記事公開時点のものです。

福原 正大(ふくはら・まさひろ)氏

Institution for a Global Society(IGS)
代表取締役社長
福原 正大(ふくはら・まさひろ)

慶應義塾大学卒業後、東京銀行(現:三菱UFJ銀行)に入行。フランスのビジネススクールINSEAD(欧州経営大学院)でMBA、グランゼコールHEC(パリ)で国際金融の修士号を最優秀賞で取得。筑波大学で博士号取得。2000年世界最大の資産運用会社バークレイズ・グローバル・インベスターズ入社。35歳にして最年少マネージングダイレクター、日本法人取締役に就任。2010年にIGSを設立。慶應義塾大学経済学部特任教授を兼任。米日財団 Scott M. Johnson Fellow。

※肩書は記事公開時点のものです。

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