人的資本理論の実証化研究会 勉強会リポート 第1回

経営戦略と結びつき、企業価値向上につながる人的資本投資の考え方とは

  • サステナビリティ本部コンサルティング部 次長 石河 織恵

「人的資本理論の実証化研究会」は、議論と実証を通じ、人的資本が企業価値に与える影響を可視化・定量化することを目的に、一橋大学大学院を中心として2022年に設立された。2024年1月に開催されたダイジェスト勉強会「『言われて賃上げ』は人的資本投資にならない。人的資本と賃金の関係とは?」の模様をお届けする。 文=斉藤 俊明

人的資本理論の実証化研究会の目的

人的資本理論のエッセンスを学び、企業経営に生かす

「人的資本理論の実証化研究会」は、情報開示の義務化に伴い人的資本が注目される一方、「人的資本」について正しく理解されていない風潮があることから一橋大学大学院を中心として2022年に設立された。23年度の会員企業は33社だ。

23年度は企業価値と人的資本の関係性、そして人的資本の発揮度や人的資本起因のリスクなどのデータ化に取り組んだ。月例勉強会で理論の基礎理解と実務適用に向けた議論を進め、それらに基づき財務・非財務データを使いながら研究・分析を行うという2段階のレイヤーで活動を展開している。

一橋大学大学院 小野浩氏 講義レビュー
人的資本経営の導入には人的資本の正しい理解が不可欠

なぜ人的資本の投資が必要なのか

一橋大学大学院 経営管理研究科 教授であり、研究会の共同座長 小野浩氏の特別講義を紹介する。小野氏は、人的資本の理論で1992年にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授の故ゲーリー・ベッカー氏のもとで学んだ人的資本理論の第一人者だ。

人的資本理論の基礎を学べば、それを実際の企業経営にも正しく生かせると小野氏。まずは人的資本の定義としてこう解説する。

「人的資本は人間の持つ能力、才能、知識を指します。背景にあるのは、“人間は合理的に行動する”という前提のもと、人的資本は金融資本や物的資本と同様に投資対象として捉えることができ、投資すれば必ず見返りが得られ、収益率を高められるという考え方です。人的資本に投資することで、生産性も高くなると考えられます」

人的資本には「一般的人的資本」と「企業特殊的人的資本」の二つがあるとして、小野氏は次のように説明する。

「一般的人的資本は市場性が高く、どの会社でも通用する能力です。典型的な例が大学教育やMBAで、これらは特定の企業に限らず社会全体で通用します。一方の企業特殊的人的資本は、企業が従業員の生産性を高めるために行う教育・訓練へ投資した結果、身につく、その企業に特化した能力を指します。市場性は低く、他の会社では通用しない能力です」

労働市場には、大きく分けて外部労働市場と内部労働市場という考え方がある。前者は、必要に応じて外部の労働市場から人を調達するというもので、需要・供給に応じて賃金が決まる。労働需要が高まれば賃金は高くなり、雇用も増えるという図式で、想定しているのは市場原理が強く働く、流動性の極めて高い労働市場だ。この市場においては、一般的人的資本が高い人々が活躍する。

対して内部労働市場は企業内に労働市場があるという考え方で、人材は企業内部で育成・調達する。この場合、企業内で生産性を高める力が重視されるため、結果的には他者で通用しない企業特殊的人的資本が多く形成されることになる。内部労働市場は言うまでもなく市場原理が弱く、流動性も極めて低い。

双方の市場における人的資本投資の違いを見ると、外部労働市場では基本的に個人が自分自身に投資することを想定し、結果として市場性が高い一般的人的資本が身につく。対して内部労働市場はその企業に特化した力を身につけるため、企業が人材育成を担うのが通常だ。

人的資本の陳腐化と流動性が低い労働市場の関連性

小野氏は人的資本に関する考え方としてもう一つ、「陳腐化」を取り上げた。

「例えば大学で学んだ第2外国語は、長年使わずに過ごすと学んだことをどんどん忘れていって、価値を失います。これが陳腐化です」

教育・訓練などの継続的な投資によって人的資本(能力)を追加していくのが人的資本のフローだ。「人的資本にはストックとフローがあり、切り離して考えることが大きなポイント。人的資本の陳腐化は避けられないので、何もしないと人的資本のストックは減ります。これがアウトフロー(outflow)になります。ストックを補うためには、継続的に投資して陳腐化を防ぐ、そしてこの投資がインフロー(inflow)になります。陳腐化を上回るペースで人的資本に投資すればストックは増え、一方で陳腐化を下回る投資、または何も投資しなければ、ストックはどんどん減っていくことになります」

そのうえで、日本企業の賃金は50代をピークに減っていくことから、この時期に人的資本の陳腐化が投資を上回ることを反映していると人的資本理論では考えられると話した。

さらに、人的資本の陳腐化はミクロだけでなくマクロについても説明できると続ける。

日本では、80年代から90年代初期に向かって労働需要の急拡大により大量採用時代を迎え、賃金が高まり、労働者数が増えた。ところがバブル崩壊で、本来なら賃金が下がり、大量の労働者を排出する必要があったところ、長期雇用を前提とした流動性が低い内部労働市場では雇用調整ができず、大量採用の人たちがそのまま残り、それが日本の生産性を著しく退化させたと小野氏。「日本は内部労働市場が支配的であり、このように過剰な人材を社内に抱え込んでしまう弊害があります」と指摘した。

「日本経済では30年間、人的資本の投資を怠ってきました。バブル崩壊以降は人的資本投資の対象とならない非正規雇用を増やしていったのですが、この点でも人的資本のストックが著しく減ってしまいました」

加えて、人的資本から見た長期雇用のメカニズムについても説明を加えた。入社時の新入社員は100%一般的人的資本を持っているが、その企業でキャリアを積む中で新たな投資を行わなかった場合は市場価値のある一般的人的資本が劣化し、代わりに市場価値のない企業特殊的人的資本の比率が高まっていく。40代、50代になると後者のほうが大きくなるため、転職には極めて不利な立場になる。そこでおいそれとは転職できず、結果的に長期雇用になっているというメカニズムだ。

「ある研究における推計によると、人的資本の減耗率は年間38%とされています。100億円の人的資本があった場合、それが1年間で60億円程度に減ってしまうということで、陳腐化が激しいことがわかります。それを補うにはやはり人的資本への継続的投資が必要です」

小野氏は日本で人的資本が定着しない理由として、“失われた30年”で人材を資産ではなく費用と捉える傾向が強まり、人材投資がおろそかになったことが大きいと述べた。また、内部労働市場が強い=市場原理が弱く賃金が必ずしも個人の人的資本を反映していないこと、社員からすれば企業が教育してくれるという甘えがあること、自分の市場価値・賃金をわかっていないため人的資本に投資する意欲が湧かないこと、そして、一般的人的資本に対するリターンが低いこと(例えばMBAを取得しても学卒者と変わらない給与体系になっていることが多い、など)も挙げた。

小野氏は最後に人的資本と賃上げの関係について、ギフト交換理論・シグナリング理論で説明した。労働者は賃上げを「ギフト」として受け取り、企業から大切にされているシグナルと考える。企業は「ギフト」として賃上げをすることで、忠誠心や生産性を期待するというものだ。

だが、ギフトとして賃上げした場合、短期的に生産性が上がっても、人的資本のストックが増えたわけではないので、長期的な生産性向上は期待できない。さらに賃上げを繰り返せば財務負担になるので、持続可能ではない。

人的資本投資によって生産性向上を実現し、その結果が賃金上昇に結びつくという長期的循環が必要だとし、そのためには人的資本の投資や働き方の見直し、労働市場の流動性など構造的な改革も必要となってくると小野氏は話した。

研究会の活動振り返りと24年度に目指すところ

勉強会の最後に、共同座長である福原正大氏が、2023年度までの実証化の振り返りを行った。

福原氏は、世界最大の資産運用会社ブラックロックの取締役を経てHRテクノロジー企業・IGSを起業し一橋大学大学院経営管理研究科特任教授も務める。

「エンゲージメントやダイバーシティー、心理的安全性などはあくまでも環境要因であり、人的資本の取り組みとしてはやはり能力から始めるのが本質だと考えています。そのために、まずは人的資本=能力をしっかり捉えていくことが重要です」と福原氏。実証分析例として、参画33社の幹部の能力データを取り、イノベーション力が企業価値に与える影響度を調べたケースについて報告した。その結果、能力が高い企業の株式リターンが最も高く、リスクは最も低いことがわかった。福原氏は「能力データをしっかり捉えると、適切なフィードバックのもと、個人の能力に応じたリスキリングが可能になります」と語り、24年度はここに賃金という要素を加え、データに基づきながら人的資本(能力指標)と賃金の関係性についても分析していくと述べた。

人的資本理論の実証化研究会 勉強会リポート

  • 第1回 経営戦略と結びつき、企業価値向上につながる人的資本投資の考え方とは
小野 浩 氏

一橋大学大学院 経営管理研究科 教授
人的資本理論の実証化研究会 共同座長
小野 浩 氏

早稲田大学理工学部卒。野村総合研究所コンサルタントを経て、米シカゴ大学大学院社会学研究科博士課程修了、PhD取得。Stockholm School of Economics准教授、Texas A&M University准教授を経て現職。現在、Texas A&M University大学院社会学研究科特任教授も務める。
主な著書に『人的資本の論理:人間行動の経済学的アプローチ』(2024、日本経済新聞出版)、『Redistributing Happiness: How Social Policies Shape Life Satisfaction』(2016,Praeger出版,K.S. Leeと共著)。American Sociological Review, Economics of Education Review, Oxford Economic Papers, Social Forces, Social Science Quarterly, 『日本労働研究雑誌』など寄稿多数

※肩書は記事公開時点のものです。

福原 正大 氏

一橋大学大学院 経営管理研究科 特任教授
人的資本理論の実証化研究会 共同座長
福原 正大 氏

現三菱UFJ銀行に入行、INSEAD(欧州経営大学院)にてMBA、グランゼコールHEC(パリ)にてMS(成績優秀者)、筑波大学博士(経営学)を取得。世界最大級の運用会社ブラックロック社で最年少マネージングディレクター、日本法人の取締役を経て、2010年IGS株式会社を創設。2016年2月より、人工知能とビッグデータを活用して、人材の能力特性分析を行う「GROW」をサービス開始。慶応義塾大学経済学部特任教授、東京理科大学客員教授。
主な書籍に『日本企業のポテンシャルを解き放つDX×3P経営』(英治出版)、『人工知能×ビッグデータが「人事」を変える』(朝日新聞出版)など。

※肩書は記事公開時点のものです。

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