「人的資本」と「脱炭素」の戦略を考える②
企業価値向上に大きな影響を与える、人的資本投資のROIを計算する意義
2022年9月15日開催
「企業価値向上セミナー『人的資本』と『脱炭素』の戦略を考える」
特別講演①:「『企業価値向上と人的資本の関係』人的資本のROIについて」より
文=斉藤 俊明
写真=木村 輝
構成=古塚浩一、金縄洋右
戦略的な人的資本の情報開示が企業価値向上のきっかけに
人的資本経営を実現するには、人材を資本として捉えることが重要だ。これまでのように人件費を経費と捉えるのではなく、自社の経営にとって最適な人的資本とはどの程度かという目線で考えることが必要になってきたといえる。
福原氏は「投資家目線でいえば、企業価値がどう向上していくかが大切であり、その企業価値に大きな影響を与える人的資本への投資についてはROI(投資利益率)を計算することが重要になります」と説明する。
とはいえ、ただ開示基準に従って情報開示すればよいわけではなく、今後は全ての企業に、人的資本に関する戦略的な情報開示が必要になるとする。つまり、企業価値向上につなげるという考え方が必要になるということだ。
では、企業価値を高められることを投資家に対し戦略的に開示するには、どうすればいいのか。福原氏はこう話す。
「企業の競争優位性を基礎とした独自のストーリーを語ることに加え、投資家は国際比較で投資先を決定するため、企業価値に人的資本がどう関連するのかをまとめた国際基準からの視点も必要です。もちろん国内独自規制の部分や、人的資本に関するリスク管理体制についても自社内で定量的に把握し、それを戦略的に開示していくことが求められます」
Institution for a Global Society(IGS)代表取締役社長
福原 正大 氏
企業価値向上につながる条件に「ハピネス」や「ウェルビーイング」
ここで福原氏は、そもそも人的資本とは何かを振り返る。「人的資本」は、1992年にノーベル経済学賞を受賞した米国のゲーリー・ベッカーが1964年に発表した、同名の論文で世に知られるようになった概念だ。福原氏は、企業と話をしていると考え方に混乱があるようだと指摘し、「人的資本は女性管理職比率や離職率を表すものでもなければ、エンゲージメントスコアでもありません。人間の持つ能力、才能、知識こそが人的資本であり、まさに一人ひとり固有のもの。そこに投資することで、企業としていかにリターンを得ていくかがベッカーの考え方の原点」と解説する。
さらに、近年の研究では、人的資本を企業価値につなげるにはある種の条件が必要だと提唱されていることを紹介する。その条件とは、“ハピネス”や“Well-being(ウェルビーイング)”といったものだ。
いくら能力が高くとも、心身が健康ではない、あるいはモチベーションが起きにくい状況では、パフォーマンスを十分に発揮できない。つまり、健康経営への投資も、人的資本を効率的に生かす合理的行動として考えられるということだ。「自社にとって重要であり、かつ最適な人的資本とは何を指すのか、そしてそこにどれだけの投資を行うのか。これを決めるのが人材戦略であり、さらには企業戦略にもつながっていきます」と福原氏は指摘する。
企業価値の最大化へ、データを基にした意思決定が重要
実際にROIを測定するには、人的資本を可視化・定量化してデータを生成する必要がある。人的資本に関するデータには、従業員の学歴や知識・スキル・資格など既にデータ化が進んでいるものもある。その一方で、スキルの新規取得や顧客の課題解決手段として応用していくためのコンピテンシー、個々人の潜在的能力といえるパーソナリティー などついては、全社レベルで継続的に可視化・定量化している企業はまだ少ないとの認識を福原氏は示した。
続いて福原氏は、企業における人的資本のデータ化と分析の事例を紹介する。ある企業では、社員約500人の基本給がどのような要因で決まっているのかを年齢・勤続年数・性別・学歴・コンピテンシーによって分析した。その結果、給与が能力ではなく、年齢や勤続年数でほぼ決められ、性別も基本給の金額に大きく影響していることが分かったという。
「この企業では、全体的に見ると女性のコンピテンシーが男性よりも統計的有意に高い一方で、コンピテンシーに対して支払われる給与は女性の方が有意に低いという結果になりました。これは女性の能力が割り引いて評価されているということであり、ダイバーシティの観点でも問題となります」
福原氏は、プライム市場上場企業12社で管理職のコンピテンシーの平均値と時価総額の関係を調べた資料を見ると、非常に高い相関関係が確認されたことも明かす。これはあくまで相関関係であり、因果関係とまではいえないが、現在IGSではさまざまな企業で因果関係を発見し、企業価値が向上しているファクターを特定して、効率的成長を目指す支援をしているとのことだ。
また、別の企業で現状の人的資本価値を具体的に計算し、能力やハピネス、エンゲージメント向上への投資が人的資本をどれだけ増加させるのかシミュレーションした例も紹介。「定量化することで、人的資本の投資・リターン予測のための土台を作り、人材施策のROIをシミュレーションできます。この9月から各業界代表の企業と、私が特任教授を務める一橋大学ビジネススクールおよびGSも連携し、このモデルの研究をスタートしたところです」と語った。
企業価値の最大化に向けて重要なのは、データを基にした意思決定の精度を高めることだと福原氏。「企業への投資判断において人的資本の情報が使われていくトレンドは不可避。各企業でも社内投資はデータに基づき判断しなければなりません。それを実践するには人材データの生成から出発し、人材戦略に基づく施策の効果検証、人的資本のROI計算の仕組み確立、そしてシミュレーションを含めデータを用いた意思決定の精度向上へと、ステップを一つずつ上がっていく必要があります」
こうした取り組みによって、投資家に説得力のある独自ストーリーを語り、かつ戦略的な開示が可能になる。言うまでもなく ゴールは開示それ自体ではなく、適切な人材投資によって企業価値を向上させることだと、福原氏は最後に強調した。
連載:「人的資本」と「脱炭素」の戦略を考える
- 【1】人的資本経営の実現に求められる「実践」と「開示」 その取り組みの具体像とは
- 【2】企業価値向上に大きな影響を与える、人的資本投資のROIを計算する意義
- 【3】多様性を前提にした人材育成の取り組みと“ありのまま”の開示を企業価値向上につなげる
- 【4】脱炭素の取り組み開示でユニバーサルオーナーに企業価値を評価されるESG経営を目指す
- 【5】TCFDへの対応においてスコープ3算定が重要になる理由とは
Institution for a Global Society(IGS)
代表取締役社長
福原 正大(ふくはら・まさひろ)
慶應義塾大学卒業後、東京銀行(現三菱UFJ銀行)に入行。フランスのビジネススクールINSEAD(欧州経営大学院)でMBA、グランゼコールHEC(パリ)で国際金融の修士号を最優秀賞で取得。筑波大学で博士号取得。2000年世界最大の資産運用会社バークレイズ・グローバル・インベスターズ入社。35歳にして最年少マネージングダイレクター、日本法人取締役に就任。2010年に「人を幸せにする評価で、幸せをつくる人を、つくる」ことをヴィジョンにIGS設立。
※肩書は記事公開時点のものです。
サステナビリティ本部 本部長
古塚 浩一
2018年、日経BPコンサルティング SDGsデザインセンター長に就任。企業がSDGsにどのように取り組むべきかを示した行動指針「SDGコンパス」の5つのステップに沿って、サステナビリティ経営の推進を支援。パーパスの策定やマテリアリティ特定、価値創造ストーリーの策定から、統合報告書やサステナビリティサイト、ブランディング動画等の開示情報をつくるパートまで、一気通貫でアドバイザリーを行うことを強みとしている。2022年1月よりQUICK社とESGアドバイザリー・サービスの共同事業を開始。ESG評価を向上させるサービスにも注力している。